「正直になれない」とはどういうことか

生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害(朝日新書) 岡田尊司(著)

 

  「正直になれない」。これは主体的な「選択」への恐れである。

 「回避性パーソナリティ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。本書に沿って概説すると、対人関係で傷つきやすく拒否や否定にとても過敏であるため傷つくことを嫌がり、初めから人間関係を避ける障害のことだ。「めんどくさい」と言って行動するのを避け、また、一見なんでも自分一人でこなし、クールで落ち着いているように見えるのは、人間関係におけるストレスを回避するための行動である。たとえ行動したとしても、常にハードルを下げて自分が受けるダメージや恥を最小限に抑えようとする。この障害は遺伝要因と環境要因が影響しており、現代においてこの症状が見られる人が増加している様子から環境要因が重視される。最初から他人の親切や愛情など期待せず、裏切られないようにする回避的な生き方は、特に近年の「個人化」する社会に対しての適応として表れ始めているとの見方もある。特に環境要因として影響するのが、幼少期の育ち方だ。親に放任され否定された子どもはもちろんのこと、過保護に育てられた(別の言い方をするなら、「選択」することを強制された)子どもたちも、「私」の意図を汲み取ってくれないと感じ、最初から何も求めないという思考へ変わっていく。こうなると「めんどくさい」、「怖くて自分をさらけ出せない」という性格が形成されていく。

 私は本文に出てくる事例と、「怖くて自分をさらけ出せない」という言葉に共感を覚えた。例えば、懇親会のお知らせが来たときに、参加してみんなと仲良くなりたいとは思っているが、そこでうまく立ち回っている様子を想像できないため、参加を拒絶する。そして、その想像は過去に挑戦してうまくいかなった失敗経験と相まって強く私を縛るようになった。よく思い出してみると、私の親も過保護なところがあった。こちらが助けてほしくもないことにやたら首を突っ込まれることの嫌気がさし、本当のところは私のことをよく理解できていないのではないかと感じることもしばしばあった。それは人間一般に広がり、だいたいの人間は自分を理解してくれず、他人に求めても裏切られるだけではないのかという不安が形成されていったのかもしれないと思う。私は「正直になれない」ことへの解決策を大学4年間の中で模索していた。そして、1つ確実なことを見つけた。それは「道を選ぶための手段を教えてくれる案内人を見け、その人に補助をしてもらうこと」だ。それは責任逃れのように見えるがそうではない。ある程度、その人の元で修業をし、ある程度自分で「選択」できそうになったら主体的に道を歩んでみるということである。私にとってこの修行は知識の吸収だった。ひたらすら本を読みまとめ、教授の元でひたすら添削を繰り返すことだった。そして、今では自分の持つ武器を考えて行動できるようになってきた。そして、それによって視野がほんの少し広がり他者を受け入れる姿勢の土台が出来上がった。他人を見下す癖が治ったのもそういうことがきっかけなのかもしれない。

 一方、著者は「回避性」を改善する方法として、些細なことで良いから何かを主体的に「選択」してみることを提案している。そして、これを行うには「安全基地」というものが必要になる。これは本音を話したり安心できる場所のことだ。回避性の人は助けを求めることをやめて自分の殻に閉じこもり、最終的には引きこもりという形になってしまうことが多い。それを改善するためにいつでも手を差し伸べ、本音をさらけ出せる安全基地をつくることが大事なのである。それは本来、親が担うべき役割だが、難しい場合には本書のようにカウンセラーにその役割をお願いしても良い。

 本書を読んで、私は安全基地に案内人という要素を加えてもよいのではないかと考えた。たしかに、なにかを選り抜くために安心できる場所が必要なのはもっともであるが、「選択」する技術というのも必要だと感じる。私は大学で学び、とにかく知識を得ようと努力しながらも、その方向性を教授に指導してもらいながら進んできた。そして、ようやく主体的になれる技術としての土台ができあがってきた。
 多様性に溢れる社会でなにかを選びとるの作業はきついものだ。もし目の前にある「選択」を間違ったらと思うと常に不安がつきまとう。特に技術や安全基地のない者にとって目の前に映る世界は、常人よりもハードルが高く、苦しいものにしか見えないだろうと思う。しかし、この安全基地を得たり、案内人を見つけることができれば、少し、ほんの一歩かもしれないが、先へ進んでみようという意思が生まれるだろう。そして、その一歩がさらに大きな一歩へ繋がるはずだ。

 

印象に残った言葉

「回避性が強まっている人は(中略)同年代の若者とすれ違いそうになると、わざわざ迂回して遭遇を避けようしたりする」